バターン「死の行進」

1月末
マニラからバターン半島に撤退した米比軍への攻撃で、恒広大隊が敵に包囲され、救援に向かった大隊も潰滅して、大きな打撃を受ける(バターン半島はジャングル地帯で、米軍は15年前から一般人の出入りを禁止し、半永久的な陣地を構築していた)。

2月10日
本間雅春司令官は、犠牲が大きいので戦力増強をはかりたい、と報告。日本軍は増援部隊を派遣し、3月末以降の第2期作戦計画を策定。

3月17日
マッカーサー司令官はケソン大統領とコレヒドール島からミンダナオ島をへてオーストラリアに脱出。オーストラリアでの第一声が「アイ・シャル・リターン」であった。

4月3日
第2期作戦計画開始。

4月8日
日本軍総攻撃開始。

4月9日
バターン半島攻略。

4月10日〔リスボン特電12日発〕
米国政府は10日「バターンの戦闘は終熄した。しかしコレヒドール島の抵抗は依然に継続されるであろう」と公表した。

4月11日【大本営発表(13日午後4時20分)】
比島方面帝国陸軍部隊は堅固なる要塞に拠れる米比軍主力を撃滅し、4月11日バターン半島を完全に攻略せり。

フィリピン占領後、日本軍は、飢餓状態にあり、無力なアメリカ人捕虜3万5,000人(米兵は1万2,000人)を収容所まで85マイルの長距離の大半を歩かせ、日本兵の虐待と熱病と疲労のため、「証拠によれば、その死亡数は8,000人であったことが示されている」(東京裁判判決)。戦後、「バターン死の行進」と有名になる。さらに収容所では「1942年4月から12月までに2万7,500人以上のアメリカ人とフィリピン人が死亡したことが証拠によって示されている」(東京裁判判決)。

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