昭和初期の女給

カフェーが日本に発展したのは明治41年で、大阪の「カフェ・キサラギ」が第一号。明治・大正期の小カフェー時代へと急転した。そして不況時代にはお色気戦略の大阪商法が銀座はじめ盛り場を席巻する。
女給は、はじめ女ボーイと呼ばれ、大正ごろは和服の上に純白のエプロンをかけた。前半身をおうほどの大型のもので、うしろでリボンのようにヒモで蝶結びをしていた。永井荷風は、これを「西洋前だれ」と言った。この蝶結びこそ〝夜の蝶〟の語源である。
カフェーとは女給のいるところで、かたわらに必ず「西洋御料理」と看板を出し、椅子もテーブルもグラスもビール会社の提供であることが、信用ある店とされていた。昼食もあり、二部制の女給のサービスで西洋料理なるものを食べるわけで、オムレツ、ハムサラダ程度だった。
女給のサービスもハッキリと有料化(チップ)するようになった。チップ相場が上昇気味なので、それでは行き詰まると大店で標準をつくった。御指名料2円、本番金1円、番外50銭、悪い経営者は、給料を1銭も出さず、チップもピンはねした。
(『新聞集成 昭和史の証言2』より)

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