芥川龍之介の自殺

文壇の鬼才芥川龍之介氏は24日午前7時市街瀧野川町田端435の自邸寝室で劇薬「ペロナール」および「ヂエアール」等を多用に服用して苦悶をはじめたのをふみ子夫人が認め、直にかゝりつけの下島医師を呼び迎へ応急手当てを加へたがその効なくそのまゝ絶命した。行年36、枕元にはふみ子夫人、画家小穴隆一氏、親友菊池寛氏、叔父竹内氏にあてた4通の遺書および「ある旧友へ送る手記」と題した原稿が残されてあつた。届出でにより瀧野川署から係官同家に出張検視をしたが、自殺の原因は多年肺結核を病み最近強烈なる神経衰弱に悩まされつゞけ更に家庭的な憂苦もあつて結果厭世自殺を計つたものと見られて居る。

先頃文壇の知友宇野浩二氏が発狂して王子脳病院に入院した際善後策のため鎌倉に久米正雄氏を訪ねたが、その時も芥川氏は「自分も強度の精神衰弱よりして発狂するかも知れない」などと冗談に語つたが「いや、自分は発狂する前に死ぬ、死の平静に飛び込んでしまふ」と厳しゆくな語で語つた。
その後、冷静に師の準備をしてゐたが、今月の16日頃、一夜妓楼に遊び、席に出た一芸者から彼女等の陰惨なる生活状況を聴いて、深く「生きるために生きる」人間の浅間しさを知り、一層厭世の心を極めたらしい。
帰宅後遺書の別記「ある旧友へ送る手記」を書いて、自分の死を決するに到つた心的過程や死への賛美をせきばくたる人世観を書中に認めてその後は機会をのみ待つてゐたが、23日になつて、遂にこの夜をもつて死期と定め、その日は一日中書斎にこもり氏が文壇生活の絶筆として雑誌「改造」執筆の「西方の人」「文芸的なあまりに文芸的な」を書き、夕食の卓ではふみ子夫人や三児とも楽しく談笑したる後、またも書斎に引きこもつたのであつた。
食後再び書斎に引きこもつた氏は聖書に読みふけつてゐたものゝ如く、暁に近き午前1時頃前記の劇薬を飲み足音静に階下の寝室にいり寝衣に着かへ床につかんとした際、既に三児とともに熟睡してゐたふみ子夫人は、ふと眼をさまして声をかけると氏は「いつもの睡眠薬を飲んだ」と低い声で答へ床の上に横たはつて尚も聖書を読んでゐたが、やがて聖書を開きたまゝばたりと枕頭に伏して眠りについた。これが芥川龍之介氏の従容たる終ゑんであつた。
翌24日午前6時頃夫人が眼をさましてみると夫の呼吸が非常に切迫し顔色は鉛の如く沈んで容易ならぬ状態らしいので驚いて前記の下島医師を迎へ直にカンフル注射その他の手当を加へたが、既におよばず同7時遂に永眠したのであつた。
芥川氏が夫人にあてた遺書は原稿用紙1枚半ばかりへペンの走り書で認めたものであつたが、さすがに筆の跡も乱れ勝ちであつた。
一、活かす工夫は絶対に無用
二、絶命後は小穴君に知らせよ絶命前に知らせることは小穴君を苦しめることに並に世人を騒がせるおそれがある
三、自殺と知れたらそれまで、自殺としれ知れなかつたら暑さ中りの病死としてくれ
四、死後は下島先生と相談して然るべく取計らへ、自殺と判つた場合は菊池あての遺書は同君に渡せ、ふみ子あてのものはいづれにかゝはらず開封して読み絶対に遺書の通りにすべし
五、小穴君には、『嘉平の蘭』を贈るべし、義敏にはすゞりを贈るべし
六、この遺書は開封読了後直ちに焼失すべし
(東京朝日)

「ある旧友へ送る手記」
……自殺者は大抵はレニエーの描いた様に、何のために自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為する様に複雑な動機を含んで居るが少くとも僕の場合はただボンヤリした不安である。何か僕の将来に対するたゞボンヤリした不安である。……僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に頼らなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円あるだけである。僕は僕の自殺したために僕の家の売れない事を苦にした。別荘の一つもあるブルヂヨア達にうらやましさを感じた。……最後に僕の決したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。……僕は冷やかにこの準備を終り今は唯氏と遊んで居る。

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