【昭和49年】冥友録

1月6日
ダウィド・アルファロ・シケイロス(77)
メキシコ市近郊クエルナバカの自宅で前立腺ガンのため。メキシコの画家。1896年チワワに生まれる。1914年メキシコ革命に参加後渡欧。帰国後22年オロスコ、リベラとともに「美術家シンジケート」宣言を発表し壁画運動を開始。後に渡米するがその過激な政治性の故に追放される。ヨーロッパの伝統的なリアリズムともいわれる社会主義リアリズムとも別な民族的な力強さがそのリアリズムの特色である。

1月10日 生野祥雲斎(しょうのしょううんさい)(69)
竹工芸家。明治37年(1904)大分県別府の生まれ。華籃制作の名工佐藤竹邑斎に師事、夢雀斎楽雲と号し、献上品を制作。昭和7年(1932)祥雲斎の号をうける。18年(1943)文展で「時代編盛籃心華賦」が特選となるなど、粗と密のたくみな編み組みの技術と斬新な感覚の作品を発表。<波三部作>のうちの「怒濤」や「炎」により日展で受賞を重ねる。42年(1967)重要無形文化財保持者の認定をうける。

1月11日 山本有三(86)
静岡県の国立熱海病院で急性心不全のため。劇作家、小説家。明治20年(1887)栃木県生まれ。苦学ののち東大独分科卒業。座付き作者となり、「生命の冠」「嬰児殺し」などで劇作家として認められる。大正15年(1926)「生きとし生けるもの」の発表後は小説に転じ、『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などいかに生きるべきかを追及した社会性のある作品を多く発表。昭和15年(1940)「ペンを折る」を発表し、以後敗戦まで権力の弾圧に抵抗し沈黙を守った。戦中『日本小国民文庫』を刊行。戦後は国語国字問題に力をそそぎ、近代劇、児童文学にも大きく貢献した。22年(1947)参議院議員に当選、28年(1953)までつとめた。

1月14日 梅本克己(61)
哲学者。戦後主体論争の中心人物の1人で、60年安保闘争時の学生運動に理論的影響を与えた。

1月20日 エドマンド・ブランデン(77)
イギリスの詩人、批評家。1896年ロンドンに生まれ2年後ケント州に移る。オックスフォード大学に入るが間もなく第一次大戦に従軍しその体験を28年『大戦余韻』に示す。20年『荷車ひき』、22年『羊飼い』で詩人としての地位を確立すると共に詩人クレアの再評価に批評家としての実力を示した。24年より3年間東京大学で講じ、その後もしばしば来日している。

2月4日 尾崎喜八(82)
急性心不全のため鎌倉額田病院にて。詩人。明治25年(1892)東京生まれ。高村光太郎、千家元麿らと親交を結び、「白樺」「生命の川」に作品を発表。大正11年(1922)第一詩集『空と樹木』を出版。平明な自由詩型で人道的精神あふれる詩を書いた。ホイットマン、ロマン・ロラン、ベルハーレンらに親しみ、『曠野の火』『行人の歌』など多くの詩集のほか、随筆、訳詩などがある。

2月19日 岩田専太郎(72)
東京・慶応病院で脳出血のため。挿絵画家。明治34年(1901)東京生まれ。父が木版の刷り師だったため少年時代より大衆絵画に興味をもつ。20歳ころより博文館で挿絵をかく。大正15年(1926)より「大阪毎日新聞』連載の吉川英治「鳴戸秘帖」の挿絵を短刀、人気挿画家となる。以降、“専太郎張り”といわれるペン描きの画風を確立し、さまざまな製版技術を駆使、挿絵会の第一人者となった。

3月1日 田中耕太郎(83)
急性心不全のため東京・新宿区の聖母病院で。佐賀県出身、大正4年(1915)東大法学部卒。昭和25年(1950)、第2代最高裁長官に就任、10年7ヵ月の長期間在任。商法の権威。

3月8日 香月泰男(62)
山口県大津郡三隅町の自宅で心筋梗塞のため。洋画家。明治44年(1911)山口県生まれ。東京美術学校で藤島武二に師事。文展、国画会展で受賞。昭和18年(1943)応召し、満州に配属されたが、敗戦後シベリアに抑留され、22年(1947)復員した。翌年より郷里に定住、以後「涅槃」「朕」「日本海」などシベリア・シリーズ57点が制作され、ライフワークとなった。黒を基調とした水墨画的な色調と単純化されたフォルムによる画風で、44年(1969)日本芸術大賞を受賞。

3月22日 福田平八郎(82)
日本画家。明治25年(1892)大分県生まれ。京都市立絵画専門学校卒業後、竹内栖鳳に師事。大正8年(1919)帝展に「雪」が初入選、10年(1921)「鯉」が特選となり、以後官展一筋に活動。「南蛮黍」「漣」「花菖蒲」など徹底した写実と装飾性の融合をめざした画風で注目された。昭和5年(1930)中村岳陵、山口蓬春らと六潮会を結成。戦後も日展などに「筍」「雨」など発表、24年(1949)毎日美術賞をうける。

3月24日 吉田五十八(いそや)(79)
直腸ガンのため東京・港区の虎の門病院で。東京都出身。大正12年(1923)東京美術学校(現東京芸大)建築科卒。欧米留学後、東京・丸の内に吉田五十八研究室を開き、以後50年間、数寄屋建築の近代化に専念。平安朝の日本美を近代建築に活かす努力を続けた。主な設計に五島美術館、大和文華館、歌舞伎座など。

3月27日 清水崑(61)
ろく膜炎のため東京・文京区の東京医科歯科大病院で。長崎県生まれ。苦学しながら漫画を独学、街頭で似顔絵描きをしているとき故岡本一平氏に認められ漫画家に。ユーモアにあふれた独自の画風を完成させ、とくに“かっぱ”の絵で人気があった。文筆家としても知られ、俳句もよくする風流人だった。

5月19日 南原繁(84)
昭和20年(1945)から東大総長。全面講和を唱えサンフランシスコ条約に反対し、吉田首相に「曲学阿世の徒」と言わしめた。

5月24日 デューク・エリントン(75)
ニューヨークの病院で肺炎のため。アメリカのジャズ・ピアニスト。作曲家。1899年首都ワシントンに生まれる。ピアノと作曲を志して22年ニューヨークに進出。エリントン楽団を結成して27年ハーレムのコットン・クラブと契約を結び人気を高める。ダンス音楽に満足せず鑑賞にたえうる硬質なエリントン・サウンドを目指し「サテン・ドール」、「A列車で行こう」等の名曲を残す。その人物の品格の高さは黒人たちの尊敬を集めた。

5月31日 木村伊兵衛(72)
心筋梗塞のため東日暮里の自宅で。写真家。明治34年(1901)東京下町生まれ。昭和5年(1930)花王石鹸広告部入社。7年(1932)野島康三らと「光画」発行、のち名取洋之助の日本工房に参加、人物写真で脚光をあびた。戦中は東方社で写真部長を勤め、敗戦と共に被爆地、東京の焼け跡の記録を撮る。以後雑誌グラビアの女性写真に腕を発揮、カルチエ=ブレッソンの写真に衝撃をうけて「秋田」に取り組んでから、「人国記」や街角のスナップの名手として写真界の硬派の土門拳と並んで軟派で代表する写真家となる。第3回菊池寛賞、芸術選奨受賞。死後、朝日新聞社が木村伊兵衛賞を設置。

6月15日 窪川鶴次郎(71)
評論家、小説家。明治36年(1903)静岡県生まれ。大正13年(1924)上京、15年(1926)中野重治らと「驢馬」創刊。プロレタリア文学運動に参加し、詩や小説を発表。昭和2年(1927)佐多稲子と結婚。「ナップ」の編集に携わり、6年(1931)入党。翌年検挙され投獄、転向し、『風雪』発表後は評論家として活動。戦後は民主主義文学運動の推進に尽力した。

6月22日 ダリウス・ミヨー(81)
ジュネーブで死去。フランスの作曲家。1892年南仏エクス・アン・プロバンスに生まれる。7歳からバイオリンを学びパリ音楽院に入り学生時代から作曲活動を開始。1917年詩人クローデルのブラジル行使赴任に秘書として随行し民族音楽等に多くの示唆を得る。ドビュッシーを敬愛しながらも19年帰国後「6人組」の1人として半印象主義の立場に立ち、代表作に23年バレエ曲「世界の創造」等。

6月29日 結城哀草果(80)
歌人。明治26年(1893)山形県生まれ。大正3年(1914)佐藤茂吉に師事し「アララギ」入会。昭和4年(1929)歌集『山麓』を出版。素朴な生活歌からしだいに農村生活の実態に目をむけた社会詠へ向かうが、農村土着の自然歌人としての生涯を貫く。昭和24年(1949)「山塊」、30年(1955)「赤光」を創刊主宰。歌集『すだま』『おきなぐさ』などのほか『村里生活記』など随筆がある。
○平和なる山村とみるは愚(おろか)にて
 争(あらそひ)を重ねそのつど飲酒す

7月25日 花菱アチャコ(77)
東大医学部付属病院で直腸ガンのため。昭和5~9年(1930~1934)まで横山エンタツとコンビで大阪漫才の黄金時代を築き、戦後はラジオ番組「アチャコ青春手帖」「ほろにが人生」「お父さんはお人好し」などに出演し活躍する。

7月29日 エーリッヒ・ケストナー(75)
ミュンヘンで死去。ドイツの小説家。1899年ドレスデンの貧しい革職人の家に生まれる。苦学の末大学を卒業しジャーナリストとなるが筆禍により失職。1928年詩集『腰の上の心臓』、少年文学『エミールと探偵たち』、31年小説『ファビアン』で確固たる地位を得る。33年『飛ぶ教室』を最後にナチスに禁書処分を受けるが、過酷な状況の中で国内に止まり第二次大戦後は旺盛な作家活動を再開した。

8月8日 いわさきちひろ(55)
東京・千駄ヶ谷の代々木病院で原発性肝臓ガンのため。童画家。「アンデルセン」で児童文化賞、「ことりのくるひ」で第10回ボロニア国際絵本展グラフィック賞第一席に入賞したほか著書多数。松本善明夫人。

8月12日 中村白葉(85)
長野県大町市立病院で脳出血のため。ロシア文学者。明治23年(1890)愛知県生まれ。東京外語大在学中より米川正夫らと「露西亜文学」を発刊、重訳ではなくロシア語からの直接翻訳によりロシア文学の紹介につとめる。昭和3年(1928)より『チェーホフ全集』に着手、戦後は『トルストイ全集』の翻訳を完成させた。36年(1961)その功績によりソ連最高幹部会からソ連名誉勲章をうける。

8月26日 チャールズ・リンドバーグ(72)
スピリット・オブ・セントルイス号でNY-パリ単独大西洋横断飛行に成功した。

9月15日 有島生馬(91)
洋画家、小説家。明治15年(1882)横浜に生まれる。有島武郎は兄で、里見弴は弟。東京外語大卒業。藤島武二に洋画を学ぶ。欧州留学後、43年(1910)「白樺」に参加、セザンヌなど後期印象派の紹介につとめるほか、『獣人』『蝙蝠の如く』などの小説を発表。大正3年(1914)二科会を創立、のち抽象派に反発し昭和12年(1937)一水会を創立した。戦後は画業に専念、後進の指導にあたった。自伝『思い出の我』がある。

9月23日 花田清輝(65)
脳出血のため。評論家、劇作家、小説家。明治42年(1909)福岡県生まれ。京大英文科中退後、昭和11年(1936)三宅雪嶺らの「東方会」に参加。14年(1939)中野秀人らと「文化組織」を発行し評論を発表、『自明の理』(のち『錯乱の論理』)を刊行。戦後は「近代文学」「新日本文学」に参加。21年(1946)評論集『復興期の精神』を刊行、仁は転形期にいかに生きるべきかを主題とした反語と逆説の難解な文体で、戦後評論に大きな影響を与えた。佐々木基一、加藤周一らと「綜合文化」発行。また埴谷雄高、岡本太郎らと「夜の会」を作り、前衛芸術運動の拠点となった。評論のほか、小説『鳥獣戯話』、戯曲「爆裂弾記」「泥棒論語」など。31年(1956)には吉本隆明と戦争責任、戦時中の抵抗問題をめぐって大論争を展開した。

10月1日 石黒敬七(77)
東京・杉並区南荻窪の自宅で脳血栓のため。早大卒。法大、慈恵医大、拓大などの柔道師範を経て渡欧。パリで洋画を学び昭和8年(1933)帰国後、「文芸春秋」客員となり随筆に健筆を振るった。24年(1949)1月から43年(1968)2月までNHK「とんち教室」のレギュラー“落第生”。写真やアンティーク雑貨のコレクションを残した。

10月9日 橋本夢道(71)
俳人。明治36年(1903)徳島県生まれ。大正12年(1923)「層雲」に参加し、荻原井泉水に師事。昭和5年(1930)栗林一石路らとプロレタリア俳句運動を興し、「旗」を創刊したが、俳句弾圧事件により2年半投獄される。戦後は新俳句人連盟に参加。『無礼なる妻』『良妻愚母』『無類の妻』などの句集がある。
○妻の手紙は悲劇めかずに来てあたたかし

10月13日 宮本三郎(69)
東京・文京区の東大病院で腸閉塞のため。芸術院会員。明治38年(1905)石川県生まれ。昭和15年(1940)から3回にわたって従軍、「山下・パーシアル両司令官会見図」ほか戦争画を描く。「画家である前に、アルチザン(職人)であらねばならない」という信条を生涯貫きとおした。

10月13日 エドワード・サリヴァン(72)
「エド・サリヴァン・ショー」の司会者。ディーン・マーチン、ジュリー・ルイスほか多数の芸能人を世に出す。

10月21日 丸山薫(75)
脳血栓のため豊橋市蟬川の自宅にて。詩人。明治32年(1899)大分県生まれ。大正6年(1917)東京高等商船学校に入学するが、脚気のため退学。のち試作を始め、東大在学中第9次「新新潮」「椎の木」に参加。昭和7年(1932)第一詩集『帆・ランプ・鷗』刊行。9年(1934)堀辰雄らと「四季」創刊、四季派の代表的叙情詩人として知られる。『幼年』『物象詩集』などのほか晩年も愛知大で教鞭をとるかたわら『連れ去られた海』など円熟した詩境をみせた。

11月13日 ヴィットリオ・デ=シーカ(72)
「靴みがき」「自転車泥棒」で戦後イタリア・ネオリアリズムの代表的監督となる。ほかに「ミラノの奇跡」「ウンベルトD」。

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