古賀政男氏、著作権裁判勝訴

4月
古賀政男氏の歌謡曲「酒は涙か溜息か」は新人歌手藤山一郎氏吹込コロムビア会社発売で一時流行唄のトツプを切り80万枚を売りつくしたといはれたが、滝野川区田端のオーゴンレコード合資会社(代表海老原寅三氏)、日本橋区4帝国発明社(代表水谷彦十郎氏)は「夢か涙か思ひ出か」と改題して中野忠晴氏に吹込ませ、また朝鮮人李明鎮氏をして朝鮮語盤のレコードを製作発売したが、その音譜は古賀氏の作曲と同一であり右両社を相手取り著作権の侵害と慰しや料の請求を東京地方裁判所へ訴へ出た。民事八部金沢裁判長係りで審理されたが、レコードの著作権侵害はあまり類がなく裁判所でも持てあまし、作曲家中山晋平氏を鑑定人に指名、審理を進めてゐたところ、「被告等は各自原告に対し250円宛(合計500円)支払ふべし」と、原告古賀氏勝訴の判決。
(報知新聞)

林房雄の別荘

馬関戦争を素材にした小説『青年』を書いた林房雄氏(33)は、それを雑誌で読んで感心した老政界人小泉栄太郎氏(63)に単行本『青年』を贈呈するため訪ね、不用の別荘を拝借したいと申し出、快諾をえた。林氏は「二三日中に早速この借家を引き払つてお借りした伊東の別荘へ移るつもりです。これで安心してわれわれの仲間のいはゆる『別荘』(監獄のこと)へもゆかれます。もし出来得るなら出所後も暫く疲れた身体を療養するためにおいて頂きたいと願つてゐます」(読売)

中野重治は出所後、この別荘に一時身を置いた。

忠犬ハチ公の渋谷

4月
帝都電鉄の渋谷・吉祥寺間全通。

4月21日
渋谷駅前に忠犬ハチ公の銅像建立。

8月21日
一度飼はれた主人の亡き後まで涙ぐましい思慕の情を見せて二主につかへぬといふ秋田犬の特性をよく現はして銅像までなつた忠犬「ハチ公」がこんど国定教科書の改正尋常小学修身書巻の二の中に教材として採用されたうへ来年4月から全国学童の前にその姿を現はすことになつた(読売)。

11月
東京横浜電鉄(現・東急電鉄)のターミナル百貨店が渋谷に開店。初の名店街がおめみえした。

帝人事件と斎藤内閣総辞職

1月17日
「時事新報」で「番町会をあばく」の財界不正キャンペーンが始まる(3月13日まで56回連載)。「番町会」は、経済連盟会長、日商会頭などを兼任し、財界の指導者である郷誠之助氏を中心とする財界グループ。メンバーは河合良成、永野護、正力松太郎、小林中、十数人の諸氏で、中島久万吉氏が商工大臣になれたのも番町会の暗躍によるものといわれる。前年5月30日、台湾銀行の帝人株処分を仲介した番町会に非難が起きていたが、「時事新報」はこのキャンペーンでも攻撃を加えた。帝国人絹は鈴木商店の子会社として発足、大番頭の金子直吉氏が育てあげた。昭和2年金融恐慌で鈴木商店が担保として入れていた帝人株が台湾銀行のものとなり、台銀から帝人には高木復享氏らの重役が送り込まれた。さらに台銀は帝人株を日本銀行に担保として入れていた。一方、帝人は昭和8年には配当1割以上の優良会社となり、これを見て、金子氏は東京商工会議所の藤田謙一会頭とはかり、帝人を取り戻そうと番町会メンバーの永野護、河合良成氏に交渉を依頼。番町会は、大蔵省黒田英雄次官に働きかけ、日本銀行に預け入れられた22万5,000株のうち10万株を河合氏が代表の買い受け団に引き取らせたが、買い取りを依頼した金子氏と買い受け団が提示した125円の価格交渉がまとまらず、株はそのままになっていた。ところが、株価はたちまち150円となり、同年暮れには197円にも高騰。買い受け団は株価急騰によりボロ儲けしたことになり、この点を「時事新報」が攻撃した。

2月
衆議院で関直彦代議士が政府攻撃をはじめ政治問題化し、ついで検事局に告発状が提出。

3月10日
「時事新報」の武藤山治社長が狙撃され死亡。

4月16日
番町会の小林中富国徴兵理事、逮捕。

4月18日
高木復享帝人社長、番町会の長崎英造、河合良成氏ら7人逮捕。

4月24日
島田茂台湾銀行頭取、逮捕。

5月19日
黒田英雄大蔵次官、逮捕。

5月20日
大蔵省の課長クラス3人が逮捕。

5月21日
大久保偵次大蔵省銀行局長、逮捕。

7月3日
斎藤実内閣総辞職。

7月8日
岡田啓介内閣成立。

昭和12年12月16日、東京地裁は全員無罪の判決。藤井五一郎裁判長は「証拠不十分の無罪ではありません。まったく犯罪の事実が存在しないということです」とつけ加えた。ただ、「全部が架空の事実であるとは思われず、ただ賢寺川の捜査の拙劣さと経済知識の貧弱から大小の魚を逃した」(「昭和大蔵省外史」)という。黒田大蔵次官は、早く釈放されたいために検事のいうままに嘆願書を書き、公判廷では全部嘘であることを陳述しているためだ。また斎藤内閣を倒して平沼騏一郎内閣を実現しようとした平沼氏とその直径の塩野季彦司法省行刑局長の策であったという戦後の証言もある。

中野重治『愛しき者へ』獄中より妻原まさへの手紙より

第百信(四月十四日)
ハコダテ大火の記事を「人」でよんだ……中略……この前、お前さんのいわゆる「さびしい」話のことをちょっと書いたが、保釈ということは今日となっては望みがないと見なければならぬ。恐らくこの夏ご下獄の運びになるのじゃないかと思う〔以下三行、検閲より抹消〕。生きつづけねばならぬというのは、お前さんが一人の人間として、一人の女として、絶対にそうしなければならぬということだ。
「貰わねばならぬ」というのは、俺としてお前さんにむかい願い望むこころだ。そうしていかなることがあろうともと言ううちには、たとえ俺が死んでもということがはいっている。死のことは二度三度言うべきではあるまい。しかしお前さんはわが女房であるから一度は言っておかねばならぬ。死はallmightyだからね。生きてるということは死をしょってるということだからね。
(中野重治『愛しき者へ』獄中より妻原まさへの手紙より)

国民政府、満州保留で日中友好へ

4月10日
中共〝全国民囚に告ぐるの書〟を発表し、反日統一戦線、抗日救国六大綱領提示。

4月
蔣介石・汪兆鉻・黄郛が南昌で会合し、満州問題保留のまま日中友好へ方針決定。

7月23日
日中大連会議、中国塘沽停戦協定廃棄を要求。

12月24日
関東軍と華北側に設関協定設立、満州国と中国が国境に税関設置。

テニスの佐藤選手、船から投身

4月5日
全国民の白熱的歓呼を浴びて西村、山岸、藤倉の3選手とともに去る3月23日郵船箱根丸で神戸を出帆、欧州遠征の晴れの壮途にのぼつたデヴイスカツプ庭球選手佐藤次郎君(27)は午後3時にシンガポールを発航して航行中、同夕刻同船がマラツカ海峡に差かゝた際突如行方不明となつた。数時間にわたつて船内くまなく捜索したが見当たらず同君の船室を調べた結果、自殺する旨の遺書を発見するに至つたので、覚悟の投身自殺を遂げたものと判明。同選手は乗船前から神経衰弱の気味であつたのが船中で重くなつたので、4日シンガポール到着とゝもに下船して辞意を洩らし、5日出発の照国丸で帰国すべき手続きまでとつたのであるが、同地での歓迎会席上における有志の熱心な勧告と庭球協会からの厳重なる訓電によって遂に意を翻へして再び乗船出発したものである。自殺の原因は、日本代表選手としての責任感と心経首位弱から遂に悲壮な決心をしたものではないかとみられてゐる。佐藤選手の姉関八十松氏夫人ひさこさんは「えツ、たうたう次郎が?……」としばし言葉もなく涙にくれてゐたが、「こんなことになるのではないかと内心憂へてゐたのです。次郎は今までにも2、3回死を覚悟したときかされてその度に勇気づけてゐましたのに…岡田さんとの婚約のことも岡田さんが一人娘で養子に行かなければならないのですが、次郎の身内は全部佐藤家から籍を抜くことに反対してゐましたのでそれも悩んでゐました」
また、佐藤氏の後援者たる御木本隆三氏は甲子園ホテルで驚きながら「私は最初から佐藤君のデ杯試合出場には絶対反対を唱へてゐた。といふのは同君は女流選手岡田早苗嬢との結婚問題の行悩みや個人的に累加する精神的な打撃でかなり弱つてゐたからです」と語つた(読売)。

4月6日
ペナンに寄港した箱根丸からシンガポールへの特別電話によれば佐藤選手の遺書は家族あて、船主あて、許婚の岡田早苗嬢あて、3選手あて外1通の合計5通で同僚選手への遺書には「自分はすでに死を覚悟してゐる。自分の亡きあとは3人でやつてくれ宜敷く頼む」といふ旨書かれてあつた。
(東京日日)