帝展解消へ爆弾発言

9月
昨年の改組に際し率先して帝展の不開催を唱へ、今回の平生文相試案に対しても岡田三郎助氏らと分かれ、単独に帝展解消の立場を取り、文部当局の諸会合に欠席を続け沈黙を守つてきた藤島武二画伯が文部当局に意見書を提出。その解く主旨は
「官設展は画家を消極的安住の境地に馴れしめ、功利主義とし、画壇を政争化するから官展を解消して各団体の独立を尊重しそれに対し諮問機関たる帝国美術院は保護、奨勧を行ふべきである」といふ。これを提出するのを最後に藤島氏は今後玄奘のまま文展乃至帝国美術院には一切関与せず、専ら製作に努め今秋も新文展に参加する第二部会と袂別した新団体、信清作派協会展へ出品し、当局及び画壇の反省を監視する意向と見られる。
(東京朝日)

ひとのみち教団弾圧

9月28日
「ひとのみち教団」初代教祖御木徳一氏(65)を大阪府警察部が検挙。目下のところ取り調べは初代教祖の婦人貞操事件(信者の娘との関係を追求)にのみ焦点を置き、同教団そのものに対する取り調べがどこまでされるのかは未判明。同氏は明治4年愛媛県松山市に生まれ、9歳の時剃髪、同市の住職となり寺で牛肉を売ったり、ブリキ製の田植機械の発明をして財政に破綻し、大阪に出て徳光教教祖金田徳光氏のもとへ入信、幹部となる。教祖の死後、同氏は子息の徳近氏らと人道徳光教を開き、「ひとのみち教団」と改称、昭和9年には大阪府布施に教団本部を完成、知識階級が大多数という公称信徒100万を抱えるまでに成長した。教育勅語の実践を説く「ひとのみち教団」は、天照大神を信仰し、病気治癒、商売繁盛、夫婦和合と現世利益を約束するなど大衆の心をつかんだ。

11月18日
大阪地方裁判所判検事らが教団本部を検挙以来初の正式家宅捜査。

昭和12年(1937年)4月28日
天照大神は太陽であるとする教養が不敬罪であり、治安維持法違反と弾圧され、御木徳近氏ら幹部も検挙。結社禁止となる。

昭和13年(1938年)
裁判中に徳一氏病死。

昭和15年(1940年)3月30日
大阪地裁は徳近氏ら7人に不敬罪で懲役4年等の判決。

昭和17年(1942年)2月21日
第二審の大阪控訴院で徳近氏に懲役3年、他の6人は懲役3月~1年、執行猶予2年が下された。

昭和19年(1944年)10月31日
大審院で上告棄却の判決により第二審判決が確定。

昭和20年(1945年)
再建準備組織「結び体」が発覚し、再検挙。

保険金自殺を強要

9月23日
杉並区荻窪に住む植木職渡辺倉吉氏(26)が急死。

9月29日
荻窪署がひそかに調査をした結果、倉吉氏の急死は自殺で、しかも同氏の妻および姉夫婦がこの自殺計画を半年以上も前から承知の上、同氏のかけた保険金5万5,000円を手に入れようとしていたという嫌疑が現れ、既に同氏の妻すず(29)、義兄宇田川猪之吉(46)、妻たけ(46)の3人を自宅から引致、取り調べ開始。

9月30日
取り調べ結果、以下のような自供を得た。
「自殺した渡辺倉吉の姉たけの夫宇田川猪之吉(46)が去る昭和2年所有の山林が差押へになりかけたので倉吉名義にして差押へを免れしめた。昨年末になり宇田川が金に窮してこの山を抵当に2,500円を他から借りた際、この山を見せるのが都合わるく別の山を見せ、そのトリツク遂行の為に倉吉を相棒に使った。ところが後日之が暴露して買主から倉吉に文句が来た。倉吉は山の売買に絡んで詐欺犯扱ひをされ元来小心者とて自殺を決心して姉を訪れたが、この時姉は冷然『もし死ぬなら保険に入れ』とすゝめて倉吉を肯かした。そして宇田川には秘して借家を抵当にして得た金を保険掛金として与へたが、この金で死ぬまでの贅沢をはじめた倉吉は、すつかり生活が面白くなつてしまつて自殺を中止、去る7月に再び姉に来年までの自殺延期を願ひ出たものである。この日酒の上で倉吉はこの自殺を宇田川に打明け宇田川も大乗気になつたが姉は計画を内証で進めてゐた事とて自殺を早くしろと命じ『お前が死なないなら私が死ぬ』とまで脅してつひに納得させてしまつたものであつた。
その後倉吉は中々死なず9月22日になり味の素の罐に劇物の入つたのを妻に見せ『これで死ぬのだ』と言残して家を出て、妻がつけて行くと倉吉は姉の家との間を2・3回往復、最後に我家へ帰つて酒を飲んだがその夜も死なず、翌23日朝妻すゞが朝食の支度をしてから倉吉を呼起こすと、倉吉は井戸ばたで顔を洗つてから砂糖湯を別々に劇薬入りのコツプをのみほし、一寸庭へ出たがすぐ奥8畳の間に帰つて忽ち悶死してしまつた。妻すゞはこれを見すまして姉たけを迎へに行くと代つてたけの夫猪之吉が来て附近の医師をよび心臓麻痺の診断を得て同25日火葬に付して葬儀をすませ保険金の下るのを待つてゐたが、保険会社も怪しんで中々支払わずにその間に検挙となつたものである」
(東京朝日)

満州の大政翼賛会

9月18日
満州事変5周年に当たり植田謙吉関東軍司令は、満州帝国協和会の根本精神に付いて管下各兵団長、満州国政府、協和会に対し満州国の国体を闡明し、政体を明徴にした万代不変の鉄則を表明。

一、満州帝国の政治の特質
満州国の政治は民主主義的政治議会の頻卑に効ばず、専制政治の弊に陥らず、民族協和し正しき民意を反映させる官民一途の独創的王道政治を実現す。
二、協和会設立の意義
協和会は満州建国とともに生まれ国家護持と定めたる国体にして建国精神を機構に護持し国民を訓練し、その理想を実現すべき唯一の思想的教化的政治実戦組織体なり、実践して偏することなく結合して私することなし。
三、満州国政府と協和会の関係
建国精神の真髄は共和国の体得すべき唯一絶対のものなり。建国精神の政治的発動顕現は満州国政府により、その思想的、教化的、政治的実践は協和会に拠るべく民意の暢達これによりて期すべし。従つて協和会は政府の従属的機関に非ず、対立機関に非ず、政府の精神的母体なり。政府は建国精神即ち協和会精神の上に構成せられたる機関にして、その官吏は協和会の精神の再興熱烈なる体得者たるべきものなり。真の協和会委員が政府に入り、または野にあつて政治、経済を指導し思想を善導し建国精神を以て全国民の動員を完成する時王道政治の実現は期待せられるべし。
昭和十一年九月十八日
関東軍司令官 植田謙吉

昭和12年(1937年)
協和会中央本部総務部長に甘粕正彦本大尉就任。