中島飛行機、多摩進出

10月
中島飛行機多摩製作所(武蔵野町関前)完成。これにより、武蔵野町人口は5万人を突破、昭和12年時の倍となった。

18年(1943)
多摩・武蔵野両製作所を合併し武蔵製作所とする。また16年には三鷹大沢に工場と研究所を建設(戦後富士重工に、一部をICUに売却)。

第一次重要産業指定

重要産業指定規則公布。重要産業団体令により鉄鋼等12事業に第一次重要産業指定。11月から鉄鋼・石炭・鉱山・セメント・車両・自動車・精密機械・電気機械・産業機械・金属工業・貿易・造船の各統制会設立。この統制会は前年企画院が提案した企業社会科の思想を受け継いだもの。

臨時徴兵検査

学生、生徒在学年限の繰り上げが行はれると共に、これに関係して国防直接の養成に基づき在学徴収延期の既刊も短縮せられ、右に関する勅令が公布され本年中に徴収延期期間の満了する者は、本年12月に臨時に徴兵検査を実施せられ、合格者は来春2月入営することゝなる。
(東京日日)

ゾルゲ事件

10月15日
国際スパイの県議で尾崎秀実が逮捕。尾崎は朝日新聞記者時代の3年上海に赴任、7年帰国後、昭和研究会に入会。13年退社後近衛内閣嘱託、後に満鉄調査部嘱託となり、支那問題研究会を主宰していた。

10月16日
近衛内閣が総辞職すると、尾崎は検事に「つぎの内閣は戦争内閣ですね。私の主張を容れてくれさえすれば、日華事変の基本的解決は要しないはずだが」と話し、日・中・ソ三国を中核とするアジア民族解放の夢を語ったと伝えられる。

10月18日
ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング」紙東京特派員ら3人を治安維持法、軍機密保護法違反などの容疑で逮捕。オットー駐日ドイツ大使は、ドイツ大使館施設情報員、ナチ党員であるゾルゲの逮捕に激しく抗議。ゾルゲは尾崎(組織名オットー)らの検挙を聞かされ、供述を始めた。

10月25日
取り調べ中のゾルゲがオットー大使に会うと「これがあなたと会う最後」と語る。9年に来日したゾルゲは上海で知り合った尾崎と連絡を再開し、情報を交換していた。

10月末
ドイツ大使館からゾルゲが預けていた重要書類入り中型トランクが検事局に渡された。

11月7日
尾崎は発信を許され、妻子に獄中書簡(戦後「愛情はふる星のごとく」として出版)を送り始める。

昭和17年(1942)5月16日
事件の取り調べは予審に移され、司法省が発表。

5月17日
「国際諜報団事件、コミンテルンの命に動く中心人物5名起訴さる」と新聞報道。起訴は、リヒアルト・ゾルゲ(47)、フランコ・ド・ヴーケリッチ(38)、宮城与徳(40)尾崎秀実(42)、マックス・クラウゼン(44)である。司法省の発表では、ゾルゲはソ連共産党でコミンテルン本部から派遣され、ナチ党員と偽り在日ドイツ大使館などから日本の機密情報を盗み、モスクワに無電で送っていた。ドイツ軍のソ連侵攻をスクープしたり、関東軍のシベリア出兵の意図はないなどの性格な情報をモスクワに伝えた。尾崎の活動もコミンテルン本部の謀略とされた。この事件に関連し、「秘密事項の漏洩」で、尾崎の知人である西園寺公一(37)、犬養健(47)の2人月以来のこの事件で近衛文麿は「アカの脅威」におののき、東条英機は戦時下の国内対策として重臣層に対する威圧手段に利用した。

12月15日
尾崎とゾルゲの予審終了。

昭和18年(1942)5月31日
尾崎、ゾルゲに死刑判決。

昭和19年(1943)4月5日
尾崎の上告棄却、その後ゾルゲは期日を過ぎたとして上告棄却。

11月7日
ロシア革命記念日に尾崎、ゾルゲの死刑執行。ソ連はゾルゲに国家勲章を授与。

行政科試験

厚生省労働局労務官室勤務の渡邊美恵さん(25)は明大女子部法科を卒業して厚生省に入ったが、先輩女性が続々司法官試験に合格するのに刺激されて「まだ女で誰もやっていない行政科試験を受けてみよう」と本年の高文行政科を受験したところ、筆記試験は勿論口述試験までスラスラと合格、見事栄冠をかち得た。