横浜事件

5月26日
中央公論社社員木村亨氏、元改造社社員相川博氏ら4人が、富山県泊町の料亭「紋庄」で、細川嘉六氏と共産党再建会議をした(17年7月)容疑で神奈川県特高が横浜地方検事局の拘引状で逮捕(横浜事件)。この伏線には、前年秋、滞米中に労働問題を研究し、開戦直前の帰国した川田寿氏夫妻を、日本に共産党を持ち込んだ疑いで検挙した事件と、細川氏の論文「世界史の動向と日本」(「改造」16年8月・9月号掲載)が、内務省の検閲を通ったにもかかわらず陸軍報道部長谷萩大佐の目にとまり、共産主義理論に基づく反戦思想をあおるものと治安維持法で細川氏を逮捕した事件があった(「改造」は発禁)が、このふたつの事件は、まったく別のものだった。その後、神奈川県特高は、川田氏が属していた世界経済調査会や満鉄調査部の友人らをおなじ容疑で逮捕。その押収品のなかに西沢富夫氏が持つ1枚の写真があり、神奈川県特高は「素晴らしい証拠品だ」と喜んだ。写真には細川氏らが写っていたからで、まったく無関係のふたつの事件が1枚の写真によってフレーム・アップされた。神奈川県特高は、写真を証拠に、「泊会議」が開かれ、日本共産党の再建準備の協議が細川氏を中心に進められていた、とした。実は、この写真は細川氏が原稿料が入ったので、友人や親しい編集者を郷里の泊町の料亭に招いたときの記念写真で、これを手掛かりに、木村、相川氏を逮捕したのだった。

昭和19年(1944)1月29日
「改造」「中央公論」の編集者が検挙。

昭和19年7月10日
改造社、中央公論社は情報局から「自主的廃業」を申し渡されて姿を消した。

昭和19年11月
神奈川県特高は日本評論社、岩波書店などの関係者を検挙。

昭和20年(1945)4月~6月
細川氏が講師をしていた昭和塾(昭和研究会の外部組織で青年教育機関)の関係者、多くの言論人、知識人が検挙され総数は49人におよんだ。「記念写真」1枚しか物的証拠がないため、神奈川県特高は検挙者に「自白」を強要した。
木村亨氏は
「当局の云うことを否認すると裸にして5・6回投げ飛ばして置いてから太さ指3本位のロープで打ったり、椅子をこわして作った木刀で頭、背中を殴り足腰を蹴るのです。また竹刀(しない)をばらばらにしたもので片や背を打ち革のスリッパで顔を叩いたりして失神状態にでもなると用意して置いたバケツの水をぶっかけ気を取り戻すと兼(かね)て用意して置いた筋書通りの調書や手記を目の前に突き付けて承認しろというのです」(「朝日」20年10月9日)
と語っている。「共産主義者は殺してもいいことになっているんだ。小林多喜二(こばやしたきじ)はなんで死んだか知っているか!」と特高警察間は繰り返した。拷問のため被疑者のうち中央公論社の浅石晴世、和田喜太郎氏の2人は獄死、1人は出獄直後に死亡、傷害を負った者は32人を数えた。ほかの被告は、20年9月~10月に、一律に懲役2年、執行猶予3年で釈放された。その後、旧被告は拷問をした警官を告訴したが、有罪となったのは警部1名のみ。事件は、東条英機の<ふところ刀>といわれた内務次官唐沢俊樹のシナリオで、反東条勢力の近衛文麿氏とその側近グループを、昭和塾、昭和研究会の線から潰すのが狙いだったという説もある。

永井荷風『断腸亭日乗』より

五月十七日。細雨烟(けむり)の如し。菊池寛の設立せし文学報国会なるもの一言の挨拶もなく余の名をその会員名簿に載す。同会会長は余の嫌悪する徳富蘇峯なり。余は無断にて人の名義を濫用する報国会の不徳を責めてやらむかとも思ひしがこれかへつて豎子(じゅし)をして名をなさしむるものなるべしと思返して捨置くこととす。晩間(ばんかん)雨霽れたれば食料品を購(あがな)はむとて浅草に行き帰途芝口の金兵衛に憩(いこ)ふ。おかみさん配給の玄米を一升壜に入れて竹の棒にて搗きゐたり。一時間あまりかくする時は精白米になるといへり。
(永井荷風『断腸亭日乗』より)

チャンドラ・ボース氏来日

元インド国民会議派議長チャンドラ・ボース氏が極秘裏に亡命のドイツから来日。ボースと秘書ハッサンはドイツの潜水艦基地プレストでU180号に乗り、マダガスカル沖で日本海軍の伊号二十九潜水艦に乗り換え、スマトラ島北端沖のサバン島に上陸。そこから航空機で立川飛行場に着いた。ドイツにいると思われたボースの来日は内外に大きな反響を呼んだ。