戦犯軍事裁判完了

総司令部カーペンター法務局長、終戦以来4ヵ年にわたる戦犯関係の軍事裁判がすべて審理を完了し、もはやアメリカ極東軍管下に1人の戦犯容疑者も拘引取り調べを受けているものはないと声明。同時に終戦以来戦犯関係の総合的発表が行われこの間約4,200名の日本人が戦犯に問われ、裁判の結果死刑に処せられたもの700名以上、終身刑の判決を下されたもの東洋全域で2,500名、数百名の軽罪戦犯者は釈放となっていることが明らかにされた。

在日朝鮮人学校閉鎖

教育基本法・学校教育法違反等を理由に在日朝鮮人学校の改組の勧告または閉鎖の通告はきょうの午前8時を期し文部省の指示にもとづき全国一せいに行われたが、一部を除き平穏のうちにほとんど完了した。これにより即時閉鎖の処分をうけたのは全国365校のうち本社調査によると小学校67、同分校28、中学校4、高等学校3、その他2、計104校で、あとの261校は11月3日までの2週間の期限付きで改組の勧告または命令をうけた。一方これと同時に元朝連に所属する学校の校舎その他教育施設は9月8日の朝連解散指定により即日接収。すなわち福岡、栃木両県下では児童の座り込み戦術、和歌山県下で児童の反対ビラ散布や東京、茨城、岡山の6都県下に若干の紛争が見られたほか一部に通告拒否校もあったが、一般には大体平穏裏に通告閉鎖を完了。

ヒロポン禍、少年層に

10月18日
警視庁、少年ヒロポン患者の取り締まりを命令。

11月21日
山形市第四高校で全高482人の生徒に挙手でヒロポン使用調査を行ったところ、内10人が使用していることが判明した。動機は進学クラスであるため勉強に追われ徹夜することが多いため使用し始めたもので、現在使用しているものは4人。ヒロポンは現在使用制限から地下に潜りマル公の約3倍錠剤(10錠)200円、注射薬(10管)400円のヤミ値で売られているので、同高の4・50件に上る金品の盗難にも結びつくのではと見られている。
(山形)

終戦後軍関係からの放出を契機に、米軍占領下で希望を失った青年層を中心に広がり、24年には全国で285万人の常用者(うち28パーセントが中毒患者)、検挙者は5万5,000人余に及んだ。

都公安条例制定

10月17日
公安条例制定の是非についての公聴会が、野老山丸の内署長以下警官約60人の厳重な警戒のうちに都議事堂にて開催。主催者側は高橋警務委員長ら18委員、公述人は代議士浅沼稲次郎氏、総同盟中執委員島上善五郎氏、弁護士坂本英雄氏、都労連委員長重盛氏(以上反対)。代議士井手光治氏、法大教授夫人足立牧子氏、東大教授杉村章三郎氏、弁護士押川定秋氏(以上賛成)の8氏が出席。

10月19日
都の公安条例とよばれる「集団行進及び集団示威運動に関する条例」が第2回臨時都議会に上程。本会議における賛否の色分けは民自クラブ51、民主クラブ20、革新クラブ8、計79名の三制に対し、反対派社会党議員団37、共産1計38名で採択が行われれば通過は必至。なおこの日条例通過反対のため外部団体が多数押しかけると予想した都当局では、丸の内署から警官隊を動員、吏員や一般訪問者の出入りを厳重に取り締まっていたが日雇い労務者の一団が午前中から都職員会議室に陣取って気勢を上げ、また都庁南門に押しかけた条例反対の労働者約百数十名が警視庁予備隊の警官ともみ合いを演じ検束者数名を出した。また庁舎内にいた日雇い労働者も随所で警官隊と衝突、都議会本会議開会前に殺気だった空気を早くもみせていた。

10月20日
集団更新および集団示威運動に関する都の条例(いわゆる公安条例)公布、即日施行。

中華人民共和国成立

4月1日
国共和平会談始まる。

4月15日
中共、国内和平協定最終案を提示。

4月20日
国府拒否、決裂。

4月21日
中共総攻撃。

4月23日
中共、南京入城。

5月11日
南京人民政府樹立。

5月17日
武昌、漢陽、九江占領。

5月27日
上海開放。

6月2日
青島占領。

7月11日
フィリピン訪問中の蔣介石、キリノ大統領と反共共同声明。

8月7日
蔣介石・李承晩階段。

9月21日
人民政治協商会議開く。首都を北京に、西暦年号採用、毛沢東主席・宋慶齢副主席選出。

10月1日
毛主席、北京天安門広場で中華人民共和国成立宣言。

10月2日
ソ連承認。

10月15日
国府、重慶遷都。

11月15日
中国の周恩来総理、国連に国府の中国代表権取り消しを要求。

11月30日
国府、重慶撤退、政府機関成都へ。

12月7日
国府、首都を台湾の台北に移転。

12月10日
蔣介石、成都から台北に移り事実上総統復帰。

12月16日
毛主席、モスクワ訪問(昭和25年(1950)3月4日 北京帰着)。

12月30日
インド、承認。